次郎太家の歩み・想い

2002年6月9日川原軍次生誕100年を機に再興した次郎太窯。その次郎太家の歩みを簡単に紹介いたします。


川原次郎太(芳次)

 

 9代陶工・次郎の長男として1862年(文久2年)誕生。

次郎は次郎太は跡継ぎとして大事な時期ということで代わりに西南戦争へ出兵した際に負傷してしまい陶工としての道を絶たれてしまいます。

西南戦争では多くの我々の窯の陶工が出兵し戦死や負傷のため閉窯におわれ存続の危機をむかえました。

次郎太は父・次郎や叔父・弥太郎などの陶工からロクロ・陶土生成・釉薬調合を教わり必死で覚えていきましたが陶土や釉薬の原土作り(臼に入れ杵で丹念に細かく砕く作業)により手首を悪くしてしまいロクロ師としての道を一時閉ざされてしまいます。

陶工として物が作れないという絶望的な時に売り子として、九州各地に売り歩きそこで色々な窯元の作品と出会い触れることで足りないもの(技術・釉薬・形)や改善すべきことなどを追及しました。

手首の悪いこの時期に陶土生成をやり直し、次郎太窯の里で採れる粘土と岩を混ぜ合わせて作る新しい調合法を編み出します。一番力を注いだのが釉薬調合で現存する釉薬を改良し綺麗に整え無くなっていた釉薬を復活させることに成功しました。

その後、手首の痛さも軽くなり明治36年再びロクロで物を作れるまでになり陶工として仕事を再開すると、めきめきと頭角をあらわし4年後には竜門に芳次ありと県下に名をはせるまでになりました。

明治40年に大正天皇がまだ皇太子の時代に皇太子への献上品を制作し、大正4年には宮内省への献上品を制作し、昭和10年には鹿児島で大演習があり天覧品を出品するように県から依頼があり次郎太の抹茶椀と軍次の一輪挿しを献上しました。次郎太は軍次と共に献上品を制作できたことを涙を流して喜んでいたそうです。この時期に次郎太窯に児童文学作家の椋鳩十先生がよく訪れており「薩摩伝統工人伝」にて名人・芳次として次郎太のことが語られております。その後、一子相伝の釉薬は軍次が受け継いでいきます。1943年(昭和18年)82才の生涯を閉じます。

 

 

川原軍次(芳揮)

 

 10代陶工・次郎太の四男として1902年(明治35年)誕生。

高等科2年の時に後継ぎとして陶工となり父・次郎太から手ほどきを受け、10年余りは先輩職人の仕事の前準備だけを行い、ロクロの手ほどきは次郎太が手首を悪くしてしまい細かく教えられないために軍次を陶工として一本立ちさせるために当時、わずかな稼ぎの中から有田から職人を雇って陶器作りをさせました。有田の陶工達は龍門司の工人達よりはるかに上手いため、その技術を近くで見ながら教わることで軍次は若くして「なかなか腕の良い工人だ」と言われるようになりました。

 

大正8年頃に窯の近くに焼酎ガメだけを焼く工場ができ龍門司の陶工のほとんどが焼酎ガメ作りに転向していきました。焼酎ガメ作りは少し陶工の心得のあるものなら簡単にでき稼ぎも良かった為であります。若い頃の軍次も焼酎ガメ工場で働きたいと次郎太へお願いしましたが次郎太は「お前が金が欲しいように俺だって金が欲しいが陶工が命を懸けて守らなければならぬものがあり、それは腕と心だ。焼酎ガメ作りにだけ精を出していたらお前の腕も心も荒れてしまう。1度失った腕も心も気づいた時には取り戻すことはできない、それを失った時に陶工は地獄に落ちるよりわびしい思いをせねばならない」と言い聞かせ軍次も理解し陶工としてより一層磨きをかけ当時は蹴ロクロでしたが蹴ロクロで大きい花瓶が作れるまで上達しました。後にも先にも蹴ロクロで大物を作れるのは軍次だけだそうです。

 

その後昭和10年天覧品作製の時に次郎太は軍次に始め作らせようとしなっかたのですが軍次は次郎太に直訴して作らせてもらい次郎太と作製しました。次郎太の技術・釉薬・心・想いを軍次が受け継ぎます。

 

しかしその後、戦争の為にものが無くなり陶器はぜいたく品という考えが強くなり売れなくなり窯元も1軒また1軒と辞めていきました。

それでも伝統の灯を消さず守るために次郎太と軍次2人だけで登り窯(現・龍門司古窯)を焼いたのは今でも伝説として語られております。

 

昭和18年次郎太が死去し精神的な支えであり厳しい師匠を失い途方に暮れ先祖の墓前で思い悩んでいた軍次でしたが、もう一度揮いたたせ「絶対に無くさない」と心に誓い昭和22年戦争から復員してきた若い人を集めて組合を作り自らが師匠となり

ロクロを教え一方では粘土作りから釉薬作りまで、全て1人で行いまた活気づかせるため設立時から理事長を務め中心として活躍しました。

中でも釉薬に力を注ぎひとり黙々と研究を重ね陶土採りや釉薬の原料採りは必ず自ら何日もかけて採取し組合員が使う釉薬は全て軍次が調合し無償提供しました、三彩焼や鮫肌焼など様々な技法を復活させた軍次の釉薬は人々の心をひきつけ窯は活気を取り戻していきます。

その努力が認められ昭和39年龍門司焼三彩焼が鹿児島県無形文化財に指定され軍次が技術保持者(人間文化財)に認定されました。その後も満足することなく研究を重ね晩年にはドンコ焼の復活にも成功しました。軍次は組合の輪を保つために過去の栄光や自分の名誉などは表に出さず作品の底に『芳揮』と彫るのも注文いただいた方から書いてくれと言われて初めて書いたそうです。そこには次郎太の陶工としての腕と心や想いが軍次にも受け継がれていたのです。