歴史


起源

 

起源は約400年前の慶長3年に島津義弘候が秀吉の命を受け朝鮮の役に出兵した際に、朝鮮の陶工達を薩摩に招致した事に始まり、慶長12年に義弘候が加治木に移住した事により陶工達も義弘候に同行し移住した、元和5年に義弘候は亡くなるが、陶工の若仲は跡継ぎとして田ノ浦窯から碗右衛門を跡継ぎに迎え、その碗右衛門が良質な陶土を求め現在の加治木町小山田に良質な陶土を見つけ窯を開いた、窯の名を山元窯と呼び碗右衛門も山元碗右衛門と名乗っていた。山元家は四代で途絶えるが、初代碗右衛門に入門した川原藤兵衛が山元窯を引継ぎ、他の薩摩焼と一風違った独特な技法を用いる黒薩摩の窯であります。
その川原家でも陶祖と言われているのが、藤兵衛の次男十佐兵衛で、十佐兵衛は子である弥五郎器遊斎と幾多の苦労を重ね、釉薬(上薬)を完成させた、それは秘伝として現在、次郎太窯に一子相伝受継がれ現在も改良を重ね続けている。

    島津義弘             川原次郎太

秘伝を受継いだ子孫達

 

先祖代々から伝授された陶土と秘伝の釉薬を使い、守り創作を続けてきた川原家であるが、その優れた技術が日本中の注目を集める事になったのは、先代である故川原軍次氏の絶え間ない努力と探究心の成果である。氏は若干16歳で父(故川原次郎太氏)に弟子入りし陶芸の道に入った。父からより良い焼物にする為に絶え間無い努力と研究を重ね、古龍門の三彩焼を復活させた、これにより窯の知名度が上がり、その功績を認められ、昭和39年に鹿児島県指定無形文化財工第壱号に指定された。

故・次郎太氏と故軍次氏の代表作品は県の歴史資料館でもある黎明館に収蔵されている。
現在は故軍次氏の次男であり窯主でもある輝夫氏(12代陶工)に技術と秘伝は継承されたが、祖父や父が努力してきた様に日々精進し、約四百年の歴史に恥じない物を作り続けている。また近年、輝夫氏の次男である輝朗氏も父に弟子入りし、貴重な祖先からの大資産である技術と秘伝を親子で守り続けている。

          龍門司古窯